松本取材その3 六九商店街散策

六九町にやってきた!

「minä perhonen」
オリジナルの図案によるファブリックを作るところから服作りを進めるお店。「minä」は「私」「 perhonen」は「ちょうちょ」を意味する言葉。蝶の美しい羽のような図案を軽やかに作っていきたいという願いを込めている。どのお洋服も可愛かったので、ぜひ自分へのご褒美に買いに行こう!

「ことの葉」
松本・今町で、古い店舗内に湧き出る水をつかいながらお花を販売している花屋さん。内装が木材で落ち着く雰囲気。お花の並べ方がお洒落で、とてもいい香りだった!

「山屋御飴所」
松本には340年も続く「米飴」だけを専門にした老舗。松本には昔から飴屋が多かったものの、現在は数件しか残ってないそう。昔ながらの建物がとてもかっこいいなと思った。どんな飴が売っているんだろう。

「LABORATORIO(ラボラトリオ)」
外装がとにかくお洒落でかっこいい!
窓をよくよく見ると、造りがとってもお洒落。
中に入るとカフェとさまざまな手作りの小物が売られている。
ここのマフィンを今度食べに行きたい!

「monbus(モンバス)」
店主の山田さんは、毎年イギリスへ行ってアクセサリーなどのアンティークなどを買いつけている。
「若いうちはお金をどんどん投資していいよ。お金はあとからついてくるから。そしてたくさんのものを見た方がいいよ」
私も海外に行ってみたいのだが、英語があまり話せないので心配だと言ったら「英語は話せなくても気持ちがあれば大丈夫!」とアドバイスをくださった。
立ち話から始まり、山田さんから多くの助言をいただきました。おまけにとても素敵な店内と商品で、monbusというお店がとても好きになりました。
また必ず行こう!

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

松本取材その4 松本市街散策

 

 


「栞日」

栞の日と書いて「しおりび」と読む。
たくさんの本と雑貨、そしておいしいスイーツと飲み物がいただける素敵なお店。私はこの日、チョコチップのスコーンと紅茶をいただいた。

「中町通り」

普段からよく来るところ。昔ながらの白黒の土蔵造りの建物が多く並ぶ、素敵な雰囲気が漂う町。
この通りにあるお店はどこもおすすめです!

「quatre gats(クワトロガッツ)」

ここでランチを食べました。
ハートランド生ビールがいただける(私はまだ飲めませんが)、アットホームなイタリアンダイニング。「クワトロガッツ」とはイタリア語で「4匹の猫」という意味。とにかく「おいしい!」のひと言に尽きる。デザートの木苺とバニラのアイスもとてもおいしかった。またぜひ行きたい。

「縄手通り」

個性的なお店が長屋風に軒を並べる商店街。女鳥羽川の土手から始まった通りで、「縄のように長い土手」から「縄手」と呼ばれるようになったとか。ちなみにこの縄手通りには有名な「クレミア」というソフトクリームを売るパン屋さん「スヰート」の本店がある。

 

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

長野取材その1 リノベでよみがえった
門前界隅(長野市東町)

長野市の善光寺門前はリノベーションが盛んです。リノベーションとは、建物を改修すること。東町は、善光寺表参道の東側にあり、空き家となった古い建物を活用した個性的な店が並びます。

◇長野市のなりたち

長野市は、善光寺の門前町として栄え、江戸時代には北国街道の善光寺宿が置かれました。加賀や北陸の諸大名は、参勤交代の折に本陣(現在のフジヤゴホンジン)に泊まり、また参拝客の精進落としの花街(現在の権堂界隈)が置かれ、多くの人でにぎわいました。

明治時代になると、県庁が置かれ、町はさらに発展します。そして明治21年には長野駅が開業しました。昭和に入ると、経済成長にともなって大型百貨店が町の中心部に開店します。

その後、経済の衰退や、大型ショッピングセンターが郊外にできたこともあって、百貨店は相次いで閉店しますが、門前の町並みは昔ながらのおもかげを残し、観光地として多くの人が訪れています。

平成10(1998)年には、冬季オリンピックの開催都市として、世界中から観光客が訪れるようになりました。

◇東町について

善光寺表参道の一本東側にある東町は、中心市街のにぎわいを支える問屋街として栄えました。

しかし、昭和40年代に長野市郊外に卸売団地がつくられ、問屋街は移転。町の人口は減少し、活気は失われます。

町には空き家や空き店舗が目立っていましたが、平成21(2009)年頃から、そうした建物をリノベーションし、あらたな店をかまえる人が増えています。

◇カネマツ、そしてボンクラとは

東町のリノベーションの先駆けが「カネマツ」であり、それを運営するのが「ボンクラ」という組織です。

カネマツは、明治43(1910)年に建てられ、大正、昭和と増築された建物です。もともとは紙問屋で、昭和46(1971)年からビニール工場 兼 倉庫として使われていましたが、平成21(2009)年から空き家となっていました。

それを借り受けたのが、建築士、デザイナー、編集者などから成る「ボンクラ」です。彼らは「有限責任事業組合(LLP)」を組織し、建物の大掃除、改装を重ねてカネマツをシェアフィスとして再生しました。現在も個々の仕事やボンクラとしての活動をとおして、町の活性化に貢献しています。

(取材・文/NP)

長野取材その2 門前散策

仁王門にぶら下げられたわらじ、
健脚祈願の意味が込められているらしい。

善光寺で出会ったわんこと猫。

六地蔵。

たくさんの亀と子どもたち。
可愛かったけど、亀は少し気持ち悪かった…。

水子地蔵。

 

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

 

長野取材その3 
編集室いとぐち 山口美緒さん

東町を散策したあと、私の人生初取材のお相手となる山口美緒さんを訪ね、古い蔵群を改修したシェアオフィスのカネマツへ。一階入り口はパンのおいしいカフェだが、残念ながらこの日はお休みだった。建物の中を見つつ、働いている方々にごあいさつしながら、最奥の編集室いとぐちへ。いよいよ山口さんとご対面。あいさつもそこそこに、なぜかコーヒー豆を挽く私。コーヒーが入り、いよいよ私の人生初取材がスタートした。

山口さんは小諸市生まれ。中学、高校と水泳部に所属。筑波大学で都市計画・地域景観計画を学び、長野市にある出版社に入社した。しかし出版社の仕事は、どこもそうらしいが、ブラックどころか漆黒レベルの過酷さで、朝の9時から深夜3時までの勤務がエンドレスという毎日。

そんななかで元気を保つのは非常に難しいものがあったという。時にはニンニク注射をうって持ちこたえていたが、心身ともに疲れ果ててしまった山口さんは出版社を辞め、2009年に「編集室いとぐち」を立ち上げた。

独立してからは自分のペースで働き、『信州蕎麦ごのみ』『日本酒で愉しむ信州の二十四節気』『長野市民会館50年の記憶』といった書籍の編集・執筆などを手がけてきた。

山口さんが長野県で働き続ける理由をたずねた。都会に生まれた人には、ビルや町工場が原風景となるが、山口さんの場合、それが長野県の山や川、あるいはひとが自然と暮らすなかで生まれる風景だった。何を美しいと思うかは、人それぞれちがう。山口さんは、自分にとって美しいものを「紙」という手段で守り、伝え、残したいと思っているのだ。古くなったら壊して、新しいものを作り出すのではなく、今あるものを大切にしていく。それはカネマツを再生した活動にもつながっている。

私は驚いたことがひとつある。それは本を作る際、「紙」から自分たちで決めるということである。どうやら、どの紙にするかで写真の写りや本の質感が大きく変わってくるらしいのだ。山口さんが言うに、発色が良く、質感が良く、いかに予算内におさえるか。この希望に沿う紙の模索は続くが、この模索が楽しいらしい。

取材のあと、門前で一番おいしいのではないかというお蕎麦屋さんにお昼ごはんを食べに行った。その帰り、山口さんが私に「いいデザイナーになりたいなら、おいしいものはたくさん食べておいた方がいい」と言った。つまり、より良いものづくりをしたければ、より良いものを知っておくということ。

私はデザインと食が繋がるとは思ってもいなかったので、新しい発見になったとともに、食べることが好きだった自分にとってうれしい言葉でもあった。今後は、今まで以上においしいものを食べていこうと思った。

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

長野取材その4 株式会社シーンデザイン
建築設計事務所 宮本圭さん 

「知ってる? 今年は桜餅300周年なんだよ」

唐突に始まった宮本圭さんの桜餅話。取材とはまったく関係ない話をしだす宮本さんに、私は興味津々だった。桜餅が誕生して今年で300年が経ったらしい。そして宮本さんはボンクラ主催の花見を盛り上げるため、「雅担当」として日本らしい文化を発掘発信しているらしい。

宮本さんは1970年、長野市生まれ。工学院大学工学研究科建築学を修了後、当時建築家を目指す人たちのなかでカッコイイとされていたアトリエ系と呼ばれる建築設計事務所に就職した。しかし、憧れの職場での仕事は雑務ばかり。やっともらえたと思った仕事は、一度もやったことがない設備設計だった。未経験なので用語すらわからないうえ、先輩は何も教えてくれない。

「辞めたい」。その気持ちを、とある人に打ち明けたところ「男が始めたことは、10年やれ」と言われた。しかし、その言葉で「10年経ったら辞めてもいいんだ!」と気持ちが楽になるとともに、「事務所のなかで誰よりも設備に精通してやろう」と前向きになれたという。それから3年半くらい経ち、宮本さんは念願の意匠設計をできることになった。

そして、決意していたとおり、宮本さんは10年後、36歳で仕事を辞め、独立してシーンデザイン一級建築士事務所を設立した。時間だけはたくさんあるなか、今の仲間たちと出会い、さまざまなプロジェクトに多数携わってきた。今ではボンクラやCAMP不動産などの活動をとおして長野の活性化に大きく関わり、多忙な日々を過ごす。

宮本さんは今後の門前について、「どうなるかはわからないけど、門前は確実に面白くなっていく」とおっしゃっていた。門前で数々のリノベーションに携わっている宮本さんがそう言うのだから、門前はさらに進化していくに違いないだろう。

取材の合間に宮本さんと、私の目指すものについてお話した。私は県内でデザイナーとして活躍したいと思っているが、まだ明確なとこまでは決まってない。そんな私に宮本さんは「地元の安曇野でデザイナーを目指すのはいいと思うよ。だって、ブルーオーシャンじゃん」とおっしゃった。

「そうか! ブルーオーシャンか!」

私は宮本さんが発した何気ないひと言で背中を押され、以前より、自分が何を目指していきたいのかが明確になった。

「ブルーオーシャン」

それは、たぶん一生私の中で忘れられないほど、心に響く言葉だった。

 

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)