上田取材その5
上田ではじめた本屋と図書館

◇ NABO と Library Lab

バリューブックスの実店舗として、かつて紙屋だった築80〜90年の建物にできたのがブックカフェ「NABO」だ。
以前ここを店舗としていた、北欧家具を扱うharutaの上田店として記憶している人も多いかもしれない。

「NABO(ネイボ)」とは、デンマーク語で「隣人」のこと。
バリューブックスが拠点とする上田の街に貢献し、人々の隣に寄り添う本屋になりたい。そんな思いから名づけられたという。

地元の人たちにたくさん足を運んでもらうため、毎日イベントを開催し、3カ月に1度リニューアルして、本のセレクションやコーナー、店内のしつらいなどに変化をもたせている。

そして、NABOの2軒となりにある「Library Lab(ライブラリーラボ)」。誰でも無料で借りることができる街の図書館だ。
本と人のつながりのあり方を提案し、未来のあり方を模索する、実験の場でもある。

企業の顔ともいえる、こうした魅力的な場を設けたことにより、魅力的な人が集まり、それがさらに企業の魅力を増す好循環が生まれている。

(取材・文/NP  写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

 

 

◇NABO店長の池上幸恵さん

さて、店頭やチラシで見かけたロゴが気になり、手がけた人は一体誰なのか鳥居さんにたずねたところ、NABO店長の池上幸恵さんだということが判明。急遽お話をうかがうことにした。

この日は、なんと池上さんが店頭に立つ最後の日だった。
店の運営だけでなく「Loppis Ueda(ロッピス上田)」という街をあげてのイベントで主催者のひとりとして関わってきた池上さん。
30歳となる節目を迎え、ワーキングホリデーの制度を活用できる最後の年だということ、そのワーキングホリデーでポルトガルで行けることを知り、ひとまず旅に出ることにしたという。

こちらが、池上さんが手がけたロゴ。鳥居さんいわく「池上フォント」と言うらしい。
池上さんは、もともと絵を描くことが好きだったので、今まで務めていた職場でもチラシや看板描きを任されていたが、それを見たまわりの人が、池上さんの長所として認めてくれたおかげで、なんとなく上手になっていったのだという。

それにしても池上さんのセンスは素晴らしい。Library Labの黒板も、池上さんが描いたものだ。

せっかくなので池上さんに「デザインやファッションを志す10代へひと言」をうかがうと、池上さんは自分が10代だった頃の話をしてくれた。

「私は、ニュースや人から聞いたことを鵜呑みにするのではなく、実際にその場に行って、自分で見たり感じたことを話せる大人になりたいと思っていました」

SNSやテレビからの「どんな町なのか、どんな人なのか、どんなお店なのか」という情報だけではなく、実際に行って、人に会い、自分で見て感じたことを表現していく。
長野プロデュース科で学ぶ私の原点として、決して忘れてはならないことを教えていただいた。

池上さんとはもしかしたらもう会えないのかしれないけれど(私はまた会いたい…)、あまりにも濃すぎる時間だった。

そして、池上さんの淹れてくださったカフェラテは、素晴らしくおいしかった。

 

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

佐久取材その1
かつては名馬を、今は有機野菜を育む地
(佐久市望月)

◇旧望月町のなりたち

鹿曲(かくま)川と布施川と千曲川に囲まれた御牧原台地には、奈良時代から平安時代、朝廷に馬を献上する「御牧(みまき)」がありました。

旧暦8月15日の満月の日に献上される馬は「望月の駒」と呼ばれ、やがて馬の名産地である御牧原の地を「望月」と呼ぶようになりました。望月は満月の、駒は馬の異称です。

「逢坂の 関の清水に影見えて いまや引くらん 望月の駒」

紀貫之の詠んだ歌のとおり、信州から運ばれた馬は、逢坂の関で朝廷に引き渡されていました。江戸時代には中山道の宿場町「望月宿」として発展し、周辺では稲作、薬用人参などの畑作、林業が行われ、酒蔵もありました。

望月町はかつて北佐久郡にありましたが、2005年に市町村合併により佐久市の一部となりました。

◇現在の望月

地元産食材を逸品へと仕上げる職人的な料理人である北沢正和さんが営む、そばと創作料理の店「職人館」。この店は農家レストランの草分けであり、この地の有機農業の牽引役でもあります。

ほかにも望月には「YUSHI CAFÉ 」「レストランさんざ」「ボスケソ」といった個性的かつ魅力的な店があります。また「ゆい自然農園」をはじめ、有機農業に取り組む農家が多数あり、望月を含む佐久市一帯は長野県における有機農業の先進地といえます。

一方で、旧望月町は人口減少が進む過疎地域に指定されています。

(取材・文/NP  写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

佐久取材その2 農業体験

小城さんの取材に会わせて、軽く農作業をお手伝いさせていただいた。
箱詰めとカモミールの収穫だ。

まず、ダンボールの組み立てからやったのだが、
簡単なように見えて、テープをまっすぐに貼るのが難しい。
テープが曲がって「性格が出るな…」と思った。

それでも私の組み立てた箱を実際に受け取る人がいるので、
心を込めて組み立てた。

組み立てた後は野菜をダンボールに詰める作業。
開けた時に喜んでもらえるように工夫しながら詰めるのは楽しかった。

実際に小城さんが育てている農作物を手にして、
どれも本当に美味しそうだな~と思っていたら

「そちらにある箱は、お土産です」

え!
このお野菜たちをもらえるの!
しかもお米まで!

この時はとにかくうれしかった。
なんてったって有機農業で作られた農作物、
おいしくないわけがない!

家に帰って、家族みんなでおいしくいただいた。

次に、場所を移動して、カモミールの収穫。
(作業に集中するあまり、カモミールの写真は撮り忘れました…)

たくさん生えていて、見た目も可愛く、常にいい香りが漂っていた。
晴れた日のお昼ごろに収穫すると、香りが飛ばなくていいのだとか。

「一節目ではなく、二節目で切ってください」

小城さんにそう言われ、失敗するわけにはいかないので
「二節目、二節目…」と考えながら収穫した。

 

つづく

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

 

佐久取材その3 小城さんの畑周辺を散策

小城さんの畑周辺を散策!


築120年の古民家。
去年まではここに住んでいたけれど、
寒すぎて冬を越すのがつらく(それでもひと冬は越したのだとか)、
引っ越して今は別の家に。

ここは、今は作業場 兼 物置にしているそうです。


「なんか音楽が聴こえるな」
と思って歩き進んでみたら、こんなところにラジカセが!
なんで音楽を流しているのか聞き忘れてしまったな…。


じゃがいも。
どうしてこんなところにあるんだろう?
というところに発見。
コロコロしていて、なんだか可愛い。
このじゃがいももきっとおいしいんだろうな!


「なにか生えてる!」
と思って近づいてみると…


アスパラガスでした。
かじりつきたくなるくらい大きかった。


さらにずんずん山の中に進んでいくと蝉の声が!
さすが大自然。
この写真は羽化したばかりの蝉。
若干ピンボケしてしまっている…。

その後、小城さんの現在の住まいで昼食。


まず、いただいた「ミント水」。
すぐそばの春日温泉で汲んだ温泉水にミントをつけただけ。
これがとてもおいしかった。

お土産にミントをたくさんいただいたので、我が家でも実践中。
小城さん直伝のミント水は家族に大好評で
みんな私よりも喜んで飲んでいる。


続いて、持参したお弁当のお供にと作ってくださったサラダ。
味つけは塩とオリーブオイルとルバーブジャム。
野菜はもちろん小城さんの育てた野菜。
このサラダも本当においしくて、今でも忘れられない。


そして、小城さん特製グリーンスムージー。
小松菜と、初めてなので飲みやすいようにと
バナナを多めに入れてくださった。
小城さんはお昼はこのスムージーをよく飲むそうで、
私たちもいただいたのだが「いかにも身体にいい!」
という味がして、すごくおいしかった。


そしてYUSHI CAFEへ!
店内の雰囲気、ケーキ、珈琲、全部が素晴らしかった!
インテリアも一つひとつ凝っていて
何時間でもいられる空間だった。
次はもう少しゆっくりしていきたいな。

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

佐久取材その4「星の坊主さま」主宰
小城雄哉さん

はじめは読み間違いかな?
と思ったけれど、やっぱり何度読んでも「星の坊主さま」。
なんて可愛らしくて個性的なんだろう!
早くお話しを聞いてみたくて、取材に行く前からうずうずしていた。

「星の坊主さま」という屋号を掲げている小城雄哉さん。
1983年、東京都出身。
大学では人間科学部に在籍して心理学を学び、教育系のカウンセラーを志していた。
しかし、思うところあって建築、美術、メイクアップなど、さまざまな職を経験したのち、もの書きを仕事に選んだ。

自費で出版した小説を、都内にある何軒かのカフェに置いてもらったところ、それを読んだ編集者から声がかかり、 児童文学を執筆するようになった。
大学卒業から数年で、執筆の仕事だけで食べていける ようになったという。

しかし、2011年3月11日に起きた東日本大震災で、小城さんの中に、ある思いが生まれた。

「自分の食べるものくらいは、自分で作ろう」

震災により流通はストップ。立場の弱い人から食べられなくなる光景を目の当たりにし、そして小城さん自身も思うように食べられなくなった経験から、自給自足の生活を思い描くようになったのだ。

震災の翌年、執筆環境を変えるため、伝手を頼りに長野県上水内郡信濃町へ移住。 借りた家に畑がついていたこともあり、独学で農業をはじめる。 その後、小布施町の「くりのみ園」で求人があることを知人から教えてもらい、一年半の間、 障害者の方と一緒に農業に勤しむことになった。

農業の魅力を感じる日々の中で、「もっと有機農業を勉強したい」と思い、長野県に問い合わせをしたところ、

「有機農業をやるなら東信に行った方がいい」

と言われ、再び移住することに。
そして佐久市旧望月町で、無農薬、無化学肥料で農業に取り組む「ゆい自然農園」での2年間の研修を経て、2016年春に独立し「星の坊主さま」が誕生したのだ。

ちなみに有機農業とは、近代農業が化学肥料と農薬を武器に省力型農法によって推進されているのに対し、土壌中の腐植などの有機物を栄養に作物を育てる本来の農業のあり方をいう(コトバンク参照)。

ゆい農園で「ここ(望月)に住むなら、まずYUSHI CAFEに行って、カウンターに座っておいで」 と言われた小城さんは、言われるがままに店へ行き、カウンターに座った。
そこには見るからに地元の農家と思われる男たちがいた。 そこで小城さんは、いかにも常連だと思われる彼らに、将来の展望を全部話すようにと促され、時間をかけて話したという。

「君にとって必要なことを、おれたちが理解していれば、君が得られないような情報を、おれたちが普段の生活の中で得られるかもしれない」

彼らが小城さんに全部話すように促したのは、ひとりでは物理的に得ることができない情報を、 町のネットワークを使えば思ったよりも簡単に得ることができるかもしれないよ、ということを伝えるためだった。

例えば、トラクターが必要なとき、その情報を共有すると、誰かがちょうどトラクターを手放したいタイミングであることがわかった。 そうやって、お互いの希望が自然につながって、お互いが納得する落としどころで、希望が実現する。

そんな風に、情報が共有されていれば、助け合うことができるのだ。 私はその話を聞いて、望月の人と人の繋がりの強さを感じた。そして小城さんにとっても、そんな人とのつながりが、望月の一番の魅力なのだという。

最後に、前回からお決まりとなった質問を小城さんに投げかけた。

「ファッションやデザインを志す10代へひと言」

小城さんの答えは 「とらわれないこと。自由であり続け、自分にしかない個性を出すこと」

この言葉は、自分のやれることを見極めている小城さんに言われると、とても説得力があり、心に刺さるものがあった。 そしてデザインをするうえで個性を出すことは、やっぱりとても重要だなと再確認することができた。

小城さんにお話を聞けてよかった!
心からそう思った。

今回の取材から名刺を渡すため、自分でデザインを考え、家でプリントした。 自分のデザインしたものを誰かに渡すのは初めてなので、少しドキドキしていた。でも、その相手が小城さんで良かったなと思った。

今度またお会いする時は、もっと成長した姿でお会いしたい。

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

松本取材その1 魅力ある個店の集まり
(松本市六九商店街)

◇松本市のなりたち

奈良時代から平安時代に信濃国の国府が上田から移され、松本は信濃国の中心となりました。室町時代後期には、松本城の前身である深志城が築城され、戦国時代に小笠原貞慶(さだよし)が松本城と改名しました。

江戸時代になると石川数正が初代藩主として天守閣の建設、城下町の整備に着手し、全国から築城のための職人が呼び寄せられました。やがて松本は信州最大の商業都市となります。1721 年から塩市が開かれ、いつしか「飴市」として開催されるようになり、現在も続いています。

明治時代に松本県を含む筑摩県(長野県の南半分)ができますが、筑摩県庁焼失を機に旧長野県 (同北半分)と統合されて現在の長野県となりました。

1902 年に国鉄松本駅が開業。1907 年には松本市が発足します。昭和に入り、1978 年にやまびこ国体開催されました。

◇六九商店街について

江戸時代、界隈は松本城下の武家地であり「六九町」と呼ばれました。通りには武家屋敷と厩(うまや)が並び、54 頭の馬がいたことに町名が由来するといわれます。六九町から今町を出て、越後へと通じる「千国(ちくに)街道」は「塩の道」とも呼ばれました。明治には植物試験場や織物工場が置かれ、先進的な産業地となり、擬洋風の看板建築が建てられました。

1967(昭和42)年に松本市ではじめてのアーケードが設置され、移転前の井上百貨店へと続く松本市の中心となる商店街でした。やがて再開発によって中心市街は移り、六九商店街は衰退します。
2011年春に木工デザイナー、三谷龍二さんのギャラリー「10cm」が、7月には「ラ・シェネガ」west 店が開店。翌年から「クラフトフェアまつもと」に合わせて「六九クラフトストリート」を開催しています。

2013年には皆川明さんの服飾ブランド「ミナペルホネン」松本店が開店し、六九商店街は全国に知られるようになりました。

◇六九クラフトストリート

松本市では、1985 年から毎年 5 月に「クラフトフェアまつもと」が開催され、近年では2日間で全国から5万人超の人が訪れます。2007年から「工芸の五月」が催され、松本市街全域で工芸にまつわる企画が行われるようになりました。

六九商店街では、六九商和会の会長を務める神山さんが三谷さんに声をかけ、クラフトフェアまつもとに合わせて 2012 年から「六九クラフトストリート」を開催しています。日本の工芸を牽引するようなギャラリーや作家らが集まるたった 3 日間のイベントに、海外からもファンが訪れるようになりました。

(取材・文/NP  写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

松本取材その2 
株式会社ラ・シェネガ カミヤマ
神山一郎さん

「コーヒーでもご馳走しますよ」
そう言いながら喫茶店に入る神山一郎さんは、オシャレな服に身をつつんだ、とても男前な方だった。私は、今までの取材の中で一番緊張していた。

神山さんは1953年、松本市出身。両親は六九商店街で乳母車店を営んでいた。現在、神山さんは同じ場所で「ラ・シェネガ」というセレクトショップを経営しているが、もともとファッションを仕事にしようとは思っていなかったので、服飾や経営について学んだことはないという。

かつてロック少年だった神山さんは、東京の美大を目指すも、半年で挫折して帰郷。乳母車店のそばで広さ4坪ほどの「ロックハウス コミューン」というロック喫茶を開く。
4年間でお金が120万円ほど貯まり、そのお金を片手に、神山さんはバックパッカーとなって1年間海外に旅に出たのだ。ヨーロッパとアメリカを半年ずつだ。

しかし、その頃、日本赤軍の事件があった影響で日本人というだけでも怪しまれるなか、当時23歳だった神山さんはロックに染まった青年だったため、より怪しまれたという。
大使館で情報を得ながらヨーロッパ各国を周り、ロンドンへ。そしてニューヨークへ渡る。ライブが見たくて2カ月間滞在したというロサンジェルスでは、大物バンドが飛び入りでライブに参加することがあったのだとか。

そして 1 年が過ぎ、所持金も残り少なくなってきたので日本に帰国。この濃密な 1 年間で、改めて日本の良さを痛感するとともに、今の神山さんのベースとなる旅になったという。

松本へ戻った神山さんは、当時、原宿で人気を博していた「文化屋雑貨店」に倣い、六九商店街で雑貨店を開いた。
洋服を売るようになると、月々の売り上げが今までとは桁違いに良くなり、乳母車店をたたむことを決意。そして現在の「ラ・シェネガ」ができたのだ。

神山さんは5年前から六九商店街の商店会長をしている。
六九商店街に最近お店が増えている ことについて「情報発信するお店の集合体であるべき」と考え、そして個性のないビルの並ぶ駅前や大通りよりも「六九の方が発信しやすい」とおっしゃっていた。
松本は、神山さんが帰郷したときに再開発をしていたが、そのなかでも六九は手つかずの状態で、今でも昔ながらの外観が残っている。

しかし「再生して価値のあるものは限られているし、そもそも壊すものは壊さないと、新しいものは生み出せない」と神山さんは言う。
確かに、遠藤克彦さんという建築家が手がけた「ラ・シェネガ」は、ひと際目立つかっこいい建物だった。
古い建物を活かそうとする考え方も大事だけれど、壊すことで生まれる革新的なものや面白いものもあるなと感じた。

最後に、ファッションやデザインを学ぶ10代にアドバイスをお願いした。神山さんから返ってきたのは「ひねくれろ」という言葉だった。

「若いうちは斜(はす)に構えて、いかに人と違うことを作り出すか。それが大事だと思う。 デザイン系を目指すなら、なおさら人と違うことを考えた方がいい」

私は、まさかアドバイスで「ひねくれろ」と言われるとは思ってもみなかったので、とても驚いた。と同時に、その言葉がとてもカッコイイと思った。
人と違うことを思っていても、それを堂々と言葉にしたり、行動に移すことは、きっと難しいと思う。でも、その殻を破るのが、自分の夢に近づくための第一歩なんだと思った。

そのためには、まず私も海外に行っていろんな刺激を受け、神山さんように自分の人生のベースになるような旅がしたいと思った。

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

松本取材その3 六九商店街散策

六九町にやってきた!

「minä perhonen」
オリジナルの図案によるファブリックを作るところから服作りを進めるお店。「minä」は「私」「 perhonen」は「ちょうちょ」を意味する言葉。蝶の美しい羽のような図案を軽やかに作っていきたいという願いを込めている。どのお洋服も可愛かったので、ぜひ自分へのご褒美に買いに行こう!

「ことの葉」
松本・今町で、古い店舗内に湧き出る水をつかいながらお花を販売している花屋さん。内装が木材で落ち着く雰囲気。お花の並べ方がお洒落で、とてもいい香りだった!

「山屋御飴所」
松本には340年も続く「米飴」だけを専門にした老舗。松本には昔から飴屋が多かったものの、現在は数件しか残ってないそう。昔ながらの建物がとてもかっこいいなと思った。どんな飴が売っているんだろう。

「LABORATORIO(ラボラトリオ)」
外装がとにかくお洒落でかっこいい!
窓をよくよく見ると、造りがとってもお洒落。
中に入るとカフェとさまざまな手作りの小物が売られている。
ここのマフィンを今度食べに行きたい!

「monbus(モンバス)」
店主の山田さんは、毎年イギリスへ行ってアクセサリーなどのアンティークなどを買いつけている。
「若いうちはお金をどんどん投資していいよ。お金はあとからついてくるから。そしてたくさんのものを見た方がいいよ」
私も海外に行ってみたいのだが、英語があまり話せないので心配だと言ったら「英語は話せなくても気持ちがあれば大丈夫!」とアドバイスをくださった。
立ち話から始まり、山田さんから多くの助言をいただきました。おまけにとても素敵な店内と商品で、monbusというお店がとても好きになりました。
また必ず行こう!

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

松本取材その4 松本市街散策

 

 


「栞日」

栞の日と書いて「しおりび」と読む。
たくさんの本と雑貨、そしておいしいスイーツと飲み物がいただける素敵なお店。私はこの日、チョコチップのスコーンと紅茶をいただいた。

「中町通り」

普段からよく来るところ。昔ながらの白黒の土蔵造りの建物が多く並ぶ、素敵な雰囲気が漂う町。
この通りにあるお店はどこもおすすめです!

「quatre gats(クワトロガッツ)」

ここでランチを食べました。
ハートランド生ビールがいただける(私はまだ飲めませんが)、アットホームなイタリアンダイニング。「クワトロガッツ」とはイタリア語で「4匹の猫」という意味。とにかく「おいしい!」のひと言に尽きる。デザートの木苺とバニラのアイスもとてもおいしかった。またぜひ行きたい。

「縄手通り」

個性的なお店が長屋風に軒を並べる商店街。女鳥羽川の土手から始まった通りで、「縄のように長い土手」から「縄手」と呼ばれるようになったとか。ちなみにこの縄手通りには有名な「クレミア」というソフトクリームを売るパン屋さん「スヰート」の本店がある。

 

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

長野取材その1 リノベでよみがえった
門前界隅(長野市東町)

長野市の善光寺門前はリノベーションが盛んです。リノベーションとは、建物を改修すること。東町は、善光寺表参道の東側にあり、空き家となった古い建物を活用した個性的な店が並びます。

◇長野市のなりたち

長野市は、善光寺の門前町として栄え、江戸時代には北国街道の善光寺宿が置かれました。加賀や北陸の諸大名は、参勤交代の折に本陣(現在のフジヤゴホンジン)に泊まり、また参拝客の精進落としの花街(現在の権堂界隈)が置かれ、多くの人でにぎわいました。

明治時代になると、県庁が置かれ、町はさらに発展します。そして明治21年には長野駅が開業しました。昭和に入ると、経済成長にともなって大型百貨店が町の中心部に開店します。

その後、経済の衰退や、大型ショッピングセンターが郊外にできたこともあって、百貨店は相次いで閉店しますが、門前の町並みは昔ながらのおもかげを残し、観光地として多くの人が訪れています。

平成10(1998)年には、冬季オリンピックの開催都市として、世界中から観光客が訪れるようになりました。

◇東町について

善光寺表参道の一本東側にある東町は、中心市街のにぎわいを支える問屋街として栄えました。

しかし、昭和40年代に長野市郊外に卸売団地がつくられ、問屋街は移転。町の人口は減少し、活気は失われます。

町には空き家や空き店舗が目立っていましたが、平成21(2009)年頃から、そうした建物をリノベーションし、あらたな店をかまえる人が増えています。

◇カネマツ、そしてボンクラとは

東町のリノベーションの先駆けが「カネマツ」であり、それを運営するのが「ボンクラ」という組織です。

カネマツは、明治43(1910)年に建てられ、大正、昭和と増築された建物です。もともとは紙問屋で、昭和46(1971)年からビニール工場 兼 倉庫として使われていましたが、平成21(2009)年から空き家となっていました。

それを借り受けたのが、建築士、デザイナー、編集者などから成る「ボンクラ」です。彼らは「有限責任事業組合(LLP)」を組織し、建物の大掃除、改装を重ねてカネマツをシェアフィスとして再生しました。現在も個々の仕事やボンクラとしての活動をとおして、町の活性化に貢献しています。

(取材・文/NP)