松本取材その2 
株式会社ラ・シェネガ カミヤマ
神山一郎さん

「コーヒーでもご馳走しますよ」
そう言いながら喫茶店に入る神山一郎さんは、オシャレな服に身をつつんだ、とても男前な方だった。私は、今までの取材の中で一番緊張していた。

神山さんは1953年、松本市出身。両親は六九商店街で乳母車店を営んでいた。現在、神山さんは同じ場所で「ラ・シェネガ」というセレクトショップを経営しているが、もともとファッションを仕事にしようとは思っていなかったので、服飾や経営について学んだことはないという。

かつてロック少年だった神山さんは、東京の美大を目指すも、半年で挫折して帰郷。乳母車店のそばで広さ4坪ほどの「ロックハウス コミューン」というロック喫茶を開く。
4年間でお金が120万円ほど貯まり、そのお金を片手に、神山さんはバックパッカーとなって1年間海外に旅に出たのだ。ヨーロッパとアメリカを半年ずつだ。

しかし、その頃、日本赤軍の事件があった影響で日本人というだけでも怪しまれるなか、当時23歳だった神山さんはロックに染まった青年だったため、より怪しまれたという。
大使館で情報を得ながらヨーロッパ各国を周り、ロンドンへ。そしてニューヨークへ渡る。ライブが見たくて2カ月間滞在したというロサンジェルスでは、大物バンドが飛び入りでライブに参加することがあったのだとか。

そして 1 年が過ぎ、所持金も残り少なくなってきたので日本に帰国。この濃密な 1 年間で、改めて日本の良さを痛感するとともに、今の神山さんのベースとなる旅になったという。

松本へ戻った神山さんは、当時、原宿で人気を博していた「文化屋雑貨店」に倣い、六九商店街で雑貨店を開いた。
洋服を売るようになると、月々の売り上げが今までとは桁違いに良くなり、乳母車店をたたむことを決意。そして現在の「ラ・シェネガ」ができたのだ。

神山さんは5年前から六九商店街の商店会長をしている。
六九商店街に最近お店が増えている ことについて「情報発信するお店の集合体であるべき」と考え、そして個性のないビルの並ぶ駅前や大通りよりも「六九の方が発信しやすい」とおっしゃっていた。
松本は、神山さんが帰郷したときに再開発をしていたが、そのなかでも六九は手つかずの状態で、今でも昔ながらの外観が残っている。

しかし「再生して価値のあるものは限られているし、そもそも壊すものは壊さないと、新しいものは生み出せない」と神山さんは言う。
確かに、遠藤克彦さんという建築家が手がけた「ラ・シェネガ」は、ひと際目立つかっこいい建物だった。
古い建物を活かそうとする考え方も大事だけれど、壊すことで生まれる革新的なものや面白いものもあるなと感じた。

最後に、ファッションやデザインを学ぶ10代にアドバイスをお願いした。神山さんから返ってきたのは「ひねくれろ」という言葉だった。

「若いうちは斜(はす)に構えて、いかに人と違うことを作り出すか。それが大事だと思う。 デザイン系を目指すなら、なおさら人と違うことを考えた方がいい」

私は、まさかアドバイスで「ひねくれろ」と言われるとは思ってもみなかったので、とても驚いた。と同時に、その言葉がとてもカッコイイと思った。
人と違うことを思っていても、それを堂々と言葉にしたり、行動に移すことは、きっと難しいと思う。でも、その殻を破るのが、自分の夢に近づくための第一歩なんだと思った。

そのためには、まず私も海外に行っていろんな刺激を受け、神山さんように自分の人生のベースになるような旅がしたいと思った。

(取材・文・写真/長野プロデュース科1年 丸山亜緒衣)

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